昭和55年03月08日 朝の御理解
御理解 第87節
「腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子がわが胎内におると思うて大切にせよ。」
万代までの宝じゃとこういう。御神徳がそうですよね。御神徳が万代までの宝。あの世にも持っていかれるこの世にも残しておけれると。万代までの宝をお互い目指さなければいけません。我が胎内に子供が宿すということはね、私共がお徳を頂く又はお徳を頂くというよりも、生みなすと言う方が良いかも知れませんよね。やっぱ生みなすんですお徳を産みなす。それには又出来たと言った様なものではなくてね、教祖様のあの奥様がお子さんが、何人目から出来られた時にもう大変難状な病気をされた時。
また出来たというのが神の機感に叶わんと仰ったそうです神様がね。まぁ次から次と子供が出来ますと、それこそ又出来たと言った様なを頂き方をするんですよね。ですから私共がね信心させて頂いておってなら本当になら、まぁ本当に信心しよってどうしてあんなに難儀が続くであろうかと言う様な場合があります。一山超えたら又一山と又この難儀と言う様な頂き方ではなくてね、それこそ又お徳を頂けれる元が出来た。又力を頂けれる元が出来たと合掌して受けて行く様な心。と言う事になるのじゃないでしょうかね。
もう難儀が続くと、この先どう言う様な事が起こって来るだろうかと、心身恐々の心これではいけません。もうそれこそ矢でも鉄砲でも持って来いと、囲いを作っての信心からねお徳が受けられるのです。そのお徳もですただ難儀な問題を乗り越え乗り越えでして、おかげを受けたのではなくてね。それこそ神願有り難し神願神愛有り難し「大坪さんこういう難儀な中にあっても本当に有り難かつですか」というて。あのう私のまぁ一番修行の激しい時分に、久保山先生がそう言う風に言うておられました。
不思議です信心を本気でまともからあの受けて立つというかね、不信心の分からせて頂く事が楽しゆうなってきますとです。この難儀この問題を通して又有り難い信心が分からせて頂く。先日壮年部会の時に、飯塚の野村さんが発表しておられましたが、もうあれを思いこれを思い合楽にご縁を頂くようになっての、まぁおかげというのは自分の都合良くなったということじゃない。信心がいろいろ分からせて頂くということを思うただけで、自動車のハンドルを持って、こうやって運転してきよりますけれどもね。
もう本当にハンドルを持ったまま、大声をあげて泣きたいような、衝動にかられますという発表をしておられます。飯塚から毎朝もちろん参って見えて、昼もまた参って見えると言う様なね。熱の言うならば、こぉ熱しきった信心の時にはです、もう本当に寒いなら寒い。熱いなら熱い事が有り難いね。熱い寒いを言うてはならんと、言うだけでも心行と言われるが。
熱い寒いところではない。その熱い寒いを有り難いと受けれるおかげでね、麦が繁殖する。この熱さでおかげで稲が良い稲が出来るだろうと思うだけでも。その熱さ寒さにお礼を言わずにはおれないという心。言わにゃならん事は分かっているばってん、中々湧いて来る様に、ならあのまぁ野村さんじゃないけれども。大声をあげて泣きたいような衝動というものになってこないね。
昨日は総代会で。正義先生がなんか先日から、合楽の御比礼に浴するということについてと、言う様なお話をしておりました時に、ほんに浴するといいや、今朝方から誰かがそげなんお届ばしてよってやったばい。あの着物のまま風呂に入っているお知らせを頂いた。その日休みがけにあるまぁ問題なら問題があって、本当にこの事に対するお答えを、神様どうぞお夢の中にでも頂かせて下さいというて、お願いをしておったら、まぁそういうお夢を頂いたとこぉ言う。
もう本当にやはり合楽にご縁、合楽にご縁を頂いておったということが有り難い、有り難いと言うてまぁ日々言うてまぁ信心が続けられておる方なんです。でその誰じゃったようと私が言いましたら、そのう陽子さんが、それはあのう原さん原のおばしゃまですっち、あらほんにそうそう原さんじゃったと言うて、まぁそんな話をした事でしたけれどね。お互い合楽の御比礼に浴しておる。確かにみんなが浴しておる訳です。御理念に良くしておるけれども、着物のまま浴している様な事はなかろうか。
それこそ素っ裸になっての浴するのでなからなければね、本当の言うならば極楽、または本当の極楽と言わずにはおれない、言うならば有り難い勿体無い、こげなあおかげも頂いてもよかろうかと、言う様なおかげに繋がらない。言うならばお徳に繋がらない。皆なさん浴しておられるのですけれどもね、ただおかげを頂いてるおるだけの浴しておるのではいかん。合楽の御比礼というはねお徳を受けるため。
昨日、福岡教会で北九州管内の婦人会が去年発会しました。各教会に婦人会があるがその教会が、言わば沢山あります北九州の教会のまぁ婦人会です。ここでは綾部さんがその役員をなさっておられます。昨日もまぁ素晴らしい開会の挨拶をされたと、もうみんな200名からのお参り、あのう参拝があってたそうですが。皆んながどこのご信者さんじゃろうか堂々としてから、と言って「まぁはぁあれは合楽のご信者げな」と言うて、まぁみんながはぁ成程と言うように。
成程合楽の言うならば御比礼というものは、みんなが言うならばそれこそ日本中津々浦々に知り渡っておる。そこの婦人会を代表するような人。成程タイプも堂々としておられるが。話される事も堂々しているという、まぁ評判だったそうです。他に高山さんとか、秋山さん総代さん方が一緒に参りました。そして私が昨日総代会の時に「あちらへ行ってから、あなた達は何を感じたか」とね。今度新築になっておる、あの見事なお教会が福岡教会が今度は出来ましたそうですが。まぁ立派なお広前が建立される。
もうそれこそ檜の香りが匂うようなお広前で、そういう会合があった。そしてとにかく北九州管内の、主だった婦人の方達が200名余りも集まった。やっぱりあるどこの教会からでもまぁ言うなら選りすぐったというか。まぁ総代さん級の人達が集まっちゃるけん、みんなやっぱ素晴らしかった。中でも体験発表なさった、新田原ですか、あれなんちゅやった新田原ね。新田原ね。教会のまぁお方だったらしい。
まぁ新田原の教会の先生というのは、わざわざ私が大阪講演の時にゃ、3日間あちらにお話に聞きにおいでと言う位に熱心な先生です。そして帰ってきてまぁ大変ご信者さん方に有り難いお話を聞いて来たというて、まぁお話をされたというごとでございますが。あのう合楽のおかげの泉を読んでおられる方らしいんです。お話の端々に「天の心地の心」と言った様な、いわゆる合楽でなかならければ使わない合楽用語が出てくる。素晴らしいお話であった。話しもなれておられた。
なれておられた方でしょうそりゃ素晴らしいお話であった。そして自分が入信しておかげを頂いた様々な難業。それこそ乗り越え乗り越えしてお取次ぎを頂いて、おかげを頂いて今日。もう聞くものはしてそれこそ涙ながらに聞いたとこぉ言われるのです。素晴らしいお話だった。そしたら高山さんがその話しを聞いてこう言われました。本当に素晴らしいお話だったけれども、なら天の心地の心といわれるけれどもね、ただねそういう難儀をお願いをしておかげを頂いてきて今日。
言うならば涙ながらに苦しい、苦しいで信心を続けておかげだけは今日頂いておられたというだけでね。合楽でいわえる地の心。土の心に徹して、その事を神愛として、神願として有り難く受けていったと言った様な話は全然なかった。だからまぁ言うなら悲しい話になった訳であるね。今日皆さんに私は聞いてもらおうというのはそこなんですね。それがね、言うならいくら合楽の御比礼が素晴らしいというても、御比礼に浴しておる。それが着物のまま浴しておる。
着物のままでお風呂へ入っておると言った様な事では、すっきりしたおかげにはならない。いやお徳にならない。それこそ神願有り難しと。どういう難儀な中にあっても、声をあげて泣きたいごたるいうなら悲しいけん苦しいけんじゃなか。合楽に御神縁を頂いた事が思うたら、もうそれこそ有り難い涙が出てくるほどしの実感。そういう信心こそがです、例えばそこに難儀があっても、その難儀を合掌して受けた姿。今胎内に神の子がやどったと思うて大切にしている姿ですね。
これが言うならここにありますように、万代までの宝になるのだと思うたら、有り難うございますと言わずにはおれない訳なんだ。皆さんが例えば懐妊のおかげを頂いたおりに、「いやほんにあんた困ったこつですの、又出来なすの」とは言わんでしょうもん。ほぉおめでとうございます、こりゃもう産月こぉどん腹抱えて、きつかろうごたるであっても矢張りおめでとうしか言わんのです。それはそういう素晴らしいものが生み出される前提だからです。
私がいつも言う様に修行させてもらっておる時に、「はぁ本当に一つのあわれ思いをするような修行ぶりではもう修行にはならん。」と私は言う。もうとにかくあいう修行の真っ最中にあって、本当にそれこそ後ろから後光がさしておるような思い。私共がもう本当にいよいよぎりぎりのときには、やっぱりあのそれこそここに正義先生がおりますが、正義先生がほんなこて親その時は大坪さんですね。大坪さんの後ろから後光の指しよるごたる感じだった」と言うております。そうの時分の事をね。
久保山先生が「この難儀な中にほんなこって有り難かですか」というごたる、有り難かったですね。それこそ万代までの宝が宿っている時、だからそれを分かったら、有り難いというてお礼が言えれる時。だからね御比礼に浴しておかげを頂いておる。その新田原のその婦人の方の話は素晴らしかった。みんながそれこそ涙の出るようなお話であった。もうそれこそまぁ高山さんが言っておられたが、もう私と一つも変わらん言うなら、難儀な問題の事を通って来ておられる。という話しじゃんけん。
やっぱりもらい泣きするごとあったろうけれどもです、それがならあのう涙を模様させるというのではなくてですね、この難儀な中に本当に有り難いとですか。と言われるような内容でなからなければいけない。今こそお徳の言うならば元になるものが、胎内に宿ったと思うて大切にするということ、そういうことだったでしょ。難儀を恐れてはならんではなくて、それこそ難あって喜べと仰る。その内容がね同じ事ですよ、やっぱ繰り返しそこば一山二山越えていくということですからね。
同んし事ですけれども、なら答えにおいてはただおかげを受けたと。またはお徳を受けたというぐらいに開きが出て来るんです。だから皆さんお徳をにでなければ、万代までの宝にならんでしょうがね。ただ苦しい苦しいだけでおかげを受けたんではね。そのための修行がいるんです。この中に本当に神愛を難儀な中に神愛を感じられるほどしの信心がいるんです。その信心の手立てをです、合楽ではこのようにして日々頂いておるのですから、その事に取り組んで。それこそ四つにしっかり取り組んで。
とにかくお礼の言えれるまでやはり貫かなきゃいけんです。その事に対してお礼の言えれるまで。ただ苦しいから助けて下さい助けて下さいだけで、助けて頂いたのではおかげを頂いた。そしてそれを人に話したら、本当にやはり貰い泣きするごと、言う様なと思うよう辛抱しなさったのうっち言うだけになってくるね。その事が言うならば万代までの宝になるようなおかげ。
昨日、総代会の中で久留米の佐田さんが発表というよりも、まぁちょっとでしたけれどもお話をしておられました。もういつもの事ですけれども、結局家のいわゆるご主人の事を言われる訳です。もう主人の信心というか人柄というか、もうこの位信じてこの位あのう主人を素晴らしいと思えたら、もう本当に素晴らしくそれこそ素晴らしい幸せとはそういうことだと思うんですね。本当にあの信じきれる、もう何と言う素晴らしい人だろうかと、心の中にいつも自分の主人の事が思えておれるということです。
そしてこぉ言われました「家の主人のような人を神様がもし取り上げなさらんなら、神様が損しなさるっち。合楽の言うならば家の主人のような人を、合楽でお使いにならなかったら合楽が損する」と、私もそう思えます。そういう言われた時でしたよ、こぉ御神前から障子を二重向こうまで響くようなおいさみがありました。もう本当にですね、神様はそういう氏子をを求めておられるのです。神人求めたもうと言うが、ただ信者が沢山集まって来さえそれば良いというのじゃなくてですね。
私の様な人間を神様が使いにならなかったら、神様が損をしなさると自分で言えたり思えたりする位な、信者にお取立てを頂きたいですね。言うならば合楽教会のそれこそ至宝の人。宝の様な人を目指さなければならない。自分でも自分を神様私の様な人間を神様がお使いなさんなら、神様が損しなさると言う位な。また家内がその主人を見てです、うちの様な主人を神様が使いなさらんなら、神様が損しなさるとという程しの、私はあのう内容と人柄を信心をいよいよ造っていき。お育て頂かなきゃいけない。
なるほど信心の徳というものは、頂くのではなくて生みなすもんだということが分かります。同んなじ万代までの宝になる元を頂いておってもね、それを難儀と感ずるか。それを今神様が私にお徳を下さろうとする、働きが始まったという頂き方との相違なんです。だからそういう受け方の出来れる、言うならば信者氏子を、目指さなければならんということです。
昨日私は総代さん方に申しました、「毎日日参が出来よります、御用が出来ますというごたる信者なら、どこの教会でんしておる人達は必ずおるばい」と私は。合楽というものの神様からの懸けられておる願いというものを、先ずは悟らなければいけん。しかも合楽の総代として、お引き立てを頂いていておるちゅう事は、もうただ事じゃないぞと。そしてまぁ佐田さんじゃないけれども、自分が総代でなからなければ、神様が損しなさるというくらいな、総代のおかげを頂かなきゃいけない。
昨日教報に教祖様のご信心を、まぁようやくそこの段階まで来たという感じでしたけれども、教祖様はあのう救世。世を救うですね。救世の人として言うならば教団人がそれを打ち出していかなければいけない。お言葉にも「自分は世界助けのためにこの世に生まれてきた」という意味の事を仰っておられます。今まではただ人間的生き方が素晴らしかったと、言った様な意味合いだけの教祖であった。段々今日今日的信。金光教の信心はね、教祖の救世主的存在の宗教大宗教家であったと。
いうことにならなきゃならんと言う様な事を、私昨日自分でこのごろ目が薄くて読まれんから、佐田先生に呼んでもらいましたら、そういうことが書いてあった。なら今の金光教でです、今金光教で言っておる様な事で、言うならば世を救う世を助ける金光教と言えれるような、人は助かりよるねおかげは頂きよる教会はあるけれども、そういうところに言うなら着眼をして、それがもう行動にまで移っておると、言った様な教会が果たしてあるだろうかと。
いや金光教よりもまだ良か宗教がいっぱいあると、言った様な程度しか感じていないのじゃないだろうかと。それをなら合楽では、もうとにかく金光教じゃなきゃ助からんという事実をね、なら皆さんがここで合楽理念を持って聞いて頂いておるし、その表現の一二を言うとです宗教以前の宗教である。それでいてもう本当にもうこのくらい普遍性に飛んだ金光教の信心はない。
○教○○宗を見て御覧なさい。この一字だけでも人間が例えば取り組まれないような、言うなら戒律的なものがあるようなものばっかりなんだけれども。金光教の場合はそうではない。どういう人のところにでも、こぉ沁み通って行く様なおかげが頂けれる。そういう教えが金光大神の教えの中にあるんだと。そしてそれをまぁ実験実証しているのが合楽の姿だ。だから合楽の信心をに目をつける。
合楽の信心に教団全体がけいとうする事になった時に。初めて教祖様がなるほど救世の為にこの世に出ておいでられたんだ、ということが分かるということなんです。昨日佐田先生宛てに末永先生から手紙が来ておる。今度移った教会の写真を送って来とってから、もうそれこそ立派な教、もう本当に教会のために出来た、あのうまぁそれもあちらふうにね、もう素晴らしい写真を送ってきておりますね。
それがその洋間がいくつもこぉあるとですから、こぉやっぱドアですからね。ここに座ったらまた後ろへ座ると、もう壁でねその次の間のものはそのうお話が聞えないと言うんです。それであのうこのマイクを送ってくれというて、佐田先生にお願いの手紙がきております。そしてその中に言っております。「合楽示現活動の最先端にあるビリグイ教会」とこぉ言ってます。もう第一線。いわえる合楽理念の実験実証。合楽示現活動に参画しておるものの、一番最前線におるビリグイと言う風に言っております。
確かにそうです。あちらへ行ってからまだ数カ月。それでそういう一つのまぁそれこそこういう生き方で行くなら、こういう生き方で行く人がならば、合楽に百人生まれたならば、これはもう合楽教会だけの事じゃない。この頃宮田というあのうあちらは、新潟の近く近所から参って見える先生がおられますが。この頃発、神愛会のにも発表しておられました。神様のお願いさせて頂きよったら、この土地がずぅっとかぁき色に染まって行くところを頂いたんです。
勿論合楽色に一色に塗りつぶされて行く様な感じで、そして私は最近実感します。「もし許されるなら、世界のそれこそ津々浦々にまで、合楽の信心を触れ歩きたい」と言うて発表されました。だからそういう人がです百人。だから合楽の信者が百人衆ということじゃない。合楽の信心をいよいよ極めて行こう、頂こうという人達であって初めて、言うならば百人衆の中に取り上げられるんだと。だから○○教会の総代さんと言った様な事じゃ出来ないよと。
そういう神様の大きな願いのかけられている、教会の総代として、だから一段も二段も、信心を進めただけではなくて、大きな祈り大きな願いに立っての、信心でなければいけないよとね。それはんなら内容はどういうことかというとですね、どんな難儀な問題が起こって来ても、それを今神の氏子がここに宿ったと思うて、有り難く受けられるような信心を、その基礎にしなければならないということです。
そういう信心を頂いてお育てを頂かなければならん。はぁこの難儀から早う助けて貰うたらよかのうと、言うごたる信心じゃでけんということ。力を受けなきゃ徳を受けなければ、そういう大きな事を口だけで願うとっただけではいけん。実際の上にそれが表されて行く様な、おかげでなかならなければならんということ。御比礼に浴しておる。たしかに浴しておるけれども。我情我意欲がこれにまとうておりながらの。
言うならばお風呂というかね。まぁ温泉に浸っとるというかね。本当に素っ裸になってからのね。赤裸々な言うならば自分というものを見極めて。そして御比礼に浴するということであったら、はぁ極楽ということになり、さぁ新たな合楽世界へということになるのです。今日は87節、これを88節にするための信心がいる。七の字はちょっと真っ直ぐしなきゃいけんね。
八十七という字を言わば真っ直ぐする、プラスになる。そこに88節88ということになってくるね。曲がっとる歪んでおるところを真っ直ぐする。この生き方をもう一段いうなら次の信心にの手掛りとしてです、改めていくというおかげ。そして言うならば普通で言うなら問題。普通で言うなら難儀。その問題を問題ともしないね。難儀を難儀とも思わないだけではない。それを有り難いと受けれる信心を、いよいよ身に付けていきたいと思うのですね。
どうぞ。